2016.09.11 キリストがわたしの内に! (朴喜煥)

2016.9.11                      朴喜煥 牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2:15-2

題名:キリストがわたしの内に!

(新共同訳)

15.わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

16.けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス․キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト․イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

17.もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。

18.もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。

19.わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。

20.生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

21.わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

(説教)

まだ、暑いですが!もうちょっとしたら、秋になり、冬が来ます。

晩秋になりますと最も賑やかな動物がいます。リスです。リスは冬眠のために土地に穴を掘り、穴の1つにどんぐり1つを埋めておきます。でかい穴を掘り数十個のドングリをいっきに埋めることはないそうです。それは餌をいっきに盗まれることを防ぐためだそうです。リスは前足で穴を掘りドングリを入れた後に、木の葉っぱを散らし偽装します。リス一匹が、冬民にために掘る穴は平均2000個程度、リスは、冬の食料を十分に備えて置いて、楽しく冬を迎えます。人生も同様だと思います。

いずれ人性の冬も訪れます。まめまめしく準備するが賢いです。

信仰の面でも、私たちは天国に向かい、いろいろと準備しなければ行けません。今年も、すでに3分の2が過ぎました。自分の信仰生活を確かめながら、恵み溢れる信仰生活になること願います。

日常の中で、たまに人を見て、あの人も神を信じる人かな!と考える時があります。その中には、牧師や長老もいます。見た目は、信仰者のように、言葉も行動も考えもそれらしく見えますが、一体どんな神を信じているのか、疑いたい人がいます。もちろん、自分もきちんと神を知り信じているのか疑いたくなります。皆さんは、いかがでしょうか?信仰が深いのか!浅いのか!自ら判断したいのであれば、神の存在において、神が怖いのか?私の罪を裁かれる神なのか?神は私を治めているのか?または神の愛を深く感じているのか?など、一日の中で一瞬でも神が私を導いていると信じながら感謝しているのか?皆さんは、いかがですか?

今日この時間を通じて私たちの信仰生活に三つの質問を通して、信仰心を確かめること願います。

一つ、 「私は何を求めて神を信じているのか?」

二つ、「私の主人は誰なのか? 私の考え, 私の行動, 私の人生の主体は誰なのか?」

みつ、 「私は イエスキリストだけで、十分なのか?」

若しかして、私の人生の安定や成功、欲望を果たすために神を信じているのではないか?最近早天祈りで、詩編を呼んでいます。ダビデは、神を私の主人、私の王であると告白しています。これは、私たちの信仰にとっては、最も重要な質問であり、毎瞬間、もしくは、一生持つべき質問であり、この質問にいつも答えながら生きるのが信仰者の人生ではないかと思います。

今日の本文はその質問について使徒パウロの答えがあります。共に、本文を注意深く読みながら、私たちも自ら使徒パウロと同じ答えを出せることが出来ること願います。

本文の前部分で、アンティオキア事件と呼ばれる事件の延長線としてぺトロが異邦人たちと食事をしていた時、エルサレムから来たユダヤ人がやって来ると身を引こうとした。このアンティオキア事件の中心はキリスト者たち自身とそれに相応しい行為に対したものでした。同時ユダヤ人たちは割礼を受け、律法を守る自分たちだけが神の民だと思い込んで、他の異邦人たちを蔑視しました。

15節の「私たちは生まれながらのユダヤ人であった」は、同時ユダヤ人たちは ユダヤ人で生まれることだけで救いが保障されたと思っていた。 生まれて八日振りに割礼を受け、神に不従順さえなければ救われると思った。そして異邦人は罪人であり、偶像礼拝者としてみだらな行為をしたり、不従順したり汚れた罪人だと思った。もし異邦人がユダヤ人のように神の民になれるためには、必ずユダヤ人のように割礼を受け、律法を守ることを通して、神の民になれると思っていた。それでユダヤ人信者たちの中の一部は異邦人信者たちにユダヤ人と同じ割礼を要求し、飲食法などの律法を守ることを主張した。

しかし使徒パウロの主張は異なった。人は義とされるのは律法の行為ではなく、ひたすらイエスキリストを信じることだった。イエスキリストを信じ、神から義と認められることは、こんにちのわたしたちの信仰の核心である。イエスキリストを信じ神の民になり、この信仰を通して義とされるのです。

だから、 割礼はそれ以上神の民になる必要条件ではなく、異邦人に要求してはいけない。さらに 飲食法のような問題で異邦人を差別してはいけないことでした。これが、使徒パウロの教えとしてぺトロが瞬間的に起こした過った行動を公に、叱られた事件です。

パウロは、律法という物差しが、異邦人を罪人にしていると言われた。「割礼を受けてない異邦人キリスト者を罪人として見るな!」これは結局キリストと神の義を逆らうことになる。ですからパウロは、ユダヤ人たちに 信仰者らしい 相応しい考えと行動をしろうと言う。

18節に、「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。」とあります。パウロが回心の以前には、律法を通じて義とされると、彼は律法も神がくださったので、尊重したが結局、義の条件として信じてなかった。パウロは律法に縛られない自由な人で、ただイエスキリストを信じることを人たちに伝えた。

パウロの信仰告白を19節に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」とあります。

「律法に対しては律法によって死んだ 」この言葉は、イエスキリストが十字架で死んだのは、律法学者の律法主義的過ちによりキリストが律法によって死んだことを意味します。それでこの律法は人が生きている間だけ効力があり、死んだら、それ以上効力がないと当時のユダヤ教は理解していた。

ラッピ文献にも、「人が死んだら律法は守る義務はない」と教えています。

19節で、パウロがなぜ、主語をキリストではなく、私にしたのか!その解答が、20節にあります。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた、神の子に対する信仰によるものです。]」とイエスが私の代わりに十字架で死んでくださったのと私もキリストと共に十字架で釘に打たれ死んだと告白しています。私が死んだというのは、私の主体がこれ以上自分自身ではないことを意味する。それでは誰ですか?私の主人は? イエスキリストです。

私は死んでキリストとして生きて行くことです。このような人が真のクリスチャンです。

先ほど、三つの質問を思い出せますか

一つ、「私は何を求めて神を信じているのか?」

二つ、「私の主人は誰なのか? 私の考え、私の行動、 私の人生の主体は誰なのか?」

みつ、 「私は イエスキリストお一人だけで、十分なのか?」

この質問に対してはっきりした回答をしなければいけません。

私たちは神の恵みが必要だし、神の祝福を受けられます。生きるための必要なものを求めます。でも受けられるから私たちが神を信じる理由ではありません。私たちの信仰は、自分のすべてを神に捧げることで進めないといけません。高ぶることなく、すべてのことでへりくだり自分が死ぬことです。

パウロのようにキリストの十字架以外には、誇るものがない人に変らないといけません。

20節の御言葉のように、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことを 告白し、深い信仰心を持ちましょう!その結果、以前にはイエスお一人で十分と言う言葉が理解出来なかったので、答えられなかったが、これからは自身を持ってイエスお一人で十分と言えるようなクリスチャンになりましょう!

・私のすべてを神にささげる信仰!

・私の主体がだれなのか?

・イエスキリストお一人で十分なのか?

そして悔い改めを通して十字架の力を悟りその力で、悪との戦かって勝利する私たちになりましょう。

神は、今も誰かを探しておられます。誰でしょう?神様に用いられる人はだれですか?

神が探したおられる人は、「自分は死んで、キリストがわたしの内におられる人です。」

このような人を通して人を生かしこの世を癒して神の御国を建てられるのです。

神の栄光と神の国のために私たち皆が用いられる人生になりますこと願います。

(祈り)

天の神様、感謝します。

イエスキリストを信じ、救われた私たちがつぎに用いられるもの

として、キリストがわたしの内に生きておられること、確信して、

信仰生活が豊かに変わること切に願います。

この礼拝を祝福してください。

主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン